沖縄・波照間島の旅
前回からの続きです。
私は高校を卒業してから、この社会に流されて平凡に生きたくないと思って、旅に出ました。
東京・八丈島の近くにある人口200人程の青ヶ島や清里での住み込みバイトで資金を貯めて、沖縄・八重山諸島を巡る旅。
約2ヶ月間(7・8月)沖縄を旅しました。
訪れたのは、沖縄本島、伊江島、石垣島、竹富島、西表島…そして一番長くほぼ滞在していたのが日本の最南端 波照間島でした。
人間の暮らしより、自然の方が遥かに大きな小さな島で、日々夕陽をみて、散歩をしながら、日々変わる宿のゲストと交流しながら、ただただこれからの自分の生き方を模索して、そんな中で実は精神的には人生で一番どん底を感じていた日々でもありました。
大自然の中で、美しい海や空、さとうきび畑、美しい星空や月。おじい、おばあの優しさ。
旅人たちとの団欒。三線音色。
そんな環境に居ながらも、実は心の世界はボロボロで、自然と交流しているときはいいけれど、人と関わるとすごくネガティブな思考が働いてしまって苦しくなり、劣等感が襲ってくる。心が不安になって、そうすると自然の中に行って心のバランスを取っていた日々。
その頃、一番苦しかった時に感じていたのは
人間の意識の中にいることがまるで牢屋の様に感じていました。その牢屋から早く外に出たくて。人間であるということは自我があるから苦しいんだと思って、無我になりたいと思い、波照間島から本島に出て、那覇から名護までをひたすら歩くという修行の様な旅を決行。
その当時は、自然界の花の様になりたいと思っていました。その方がなんて生きやすそうなんだろうと。
人間という自我があり、自然そのものになれたら生命のリズム通りにエゴがなく生きていける。損得もない、善悪もない、なんてそっちの方が楽なんだろうと。
それぐらい、人間の意識の中で生きる相対の世界がしがらみの様で、本当に苦しくて苦しくて、虚しくて、オートで走るネガティブな思考に支配されて、本当に生きづらい。
人間て何の為に生きているの?
こんな考えに支配されて生きる不自由な生き方が、本当に人間の生きる道なのか?
人間はもっと可能性があるはずだし、こんなもんじゃないはず!
そう心の中で問いながら、旅をしていました。
約2週間、本島を那覇から名護までひたすら歩いて歩いて歩いて・・・問いを探究し続けました。
でも、その歩く旅で気づいたことは
ただシンプルなこと
呼吸していること、生きていること
お腹がすくこと
ただ私は人間であるということしか気づくことはなかったです。
求めていた答えを得る事はできなかったけど、そこから、私は再び波照間島に戻りました。
何故かというと、調度旧盆の時期で
その時期は沖縄ではいろんな島で先祖を供養するお祭りが行われるからです。
そこで、再び波照間島に戻り
ムシャーマという祭りを味わいました。
そのムシャーマの夜、私はひとつの気付きを得ました。
とっても小さな島で、島の全員がひとつになり祭りを終えた日
私は、小さな島で大きな生命体の中の一部分としての人間という存在として、自分自身を捉えるイメージを得ました。
それはとても感覚的ですが、これまでは自分の目の前に起こることを全て苦しみと捉えていたけれど、日々の自然との交流を通して繋がりを感じ続けることで、私という存在は、宇宙・地球という大きな生命体の中の一部分であるということを感覚として得ました。
そうした時に、今まで常に不安だった心が、繋がりを感じることができて本当に安心しました。繋がりを認識することができて、全体と繋がった存在であるということを感じ、なんて今ここが美しいのか。
生きているという躍動感、生命感
何てこの世界は素晴らしい世界なんだ
なんて美しい世界なんだということを
魂深くから感じ、叫び
生きていることは本当に神秘で素晴らしいことなのか
感覚的に本当に、深く深く感じ
この生きていることの
生命感や躍動感を感じれることは
生きている上で本当に大事なことに気付いた!と思いました。
私は、その旅の中でひとつの結論を得て
人間として生きる上で一番大事だと思える発見をしたことで
その旅を終えました。
それから東京に戻ってから、その発見をより具現化する出会いが待っていたのです。
続く・・・・